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光明寺の歴史

光明寺の歴史

古城山光明寺は明治21年2月10日の創立である。真宗本願寺派に属していた。(現在は単立宗教法人)
毎年11月下旬から12月上旬にわたって親鸞聖人の降誕を祝して報恩会を開き、
また1月9日から16日までは聖忌の逮夜を行い、50年ごとに大報恩講を開く。
変革は次のとおりである。

  • ● 明治21年2月10日 真宗本派本願寺説教所として創立を許可された。
  • ● 同30年3月説教所を光明寺と改称。
  • ● 大正5年9月6日落雷により本堂並びに庫裏を全焼、仏像はかろうじて避難した。
  • ● 同8年5月谷口伝次郎、谷口光蔵、野口伊平、谷口慶次郎、野口弥吉外檀徒一同の尽力により本堂の再建計画なる。
  • ● 同九年4月本堂の上棟式を挙行。
  • ● 同10年4月野口筆蔵の篤志により梵鐘鋳造式並びに供養法会を執行。
  • ● 昭和17年3月31日寺院規則制定の認可を得る。
  • ● 同17年11月8日太平洋戦争のため梵鐘献納。
  • ● 同20年10月9日 由良川の大洪水により庫裏は水没し、本堂も床上浸水の被害を受けた。
  • ● 同22年9月 寺院大修理と改築を行う。
  • ● 同26年3月 梵鐘の奉納供養を願主光明寺第6世住職釈満丸、施主谷口庄吉、妻あや子、製作者富山県高岡市鋳物師老子五右衛門で厳修。
  • ● 同39年4月 親鸞聖人700回忌の法要を勤修。
  • ● 平成25年 単立宗教法人として認証される
  • ● 祇園女御塚を京都祇園堂から京田辺を経て当寺院に移設
  • ● 現在に至る

光明寺のある志高

古代の『和名抄』の志託郷。高山寺本の訓には「之多加」とある。
丹後風土記残欠にも記録があり、それは「荒蕪」と書かれている。シグキとかシタキ、シタカなどと読まれている。志高(千葉県香取郡山田町)、志多賀(長崎県上県郡峰町)とか、あるいは尻高しったか(群馬県吾妻郡高山村)など、全国的に見られる地名で、たぶんウチシダクなど古語にみられるシダクという荒蕪の地をそう呼ぶのでなかろうかと思われる。日子坐王が踏み荒らしたとかいうのでなく、川の氾濫地で荒れていたのではなかろうか。あるいは鉱山の鉱毒などで荒れていたかも知れない。写真のあたりは現在は整理された美田が続いている中を、由良川堤防建設工事が始まっている。

中世は志高荘で、室町期に見える荘園名。「「丹後国田数帳」に「一 志高圧 廿三町一段百七歩内」とある。広隆寺縁起には「今上皇帝有勅、永於当寺、勤修上件法会、故毎四時至今修焉、今上皇女御、以丹後国志高庄、而為薬師如来燃燈之料也」とあり、村上天皇の女御から薬師如来の燃灯料として広隆寺(現京都市右京区)に寄進された、これが事実ならば当荘の成立時は平安中期にまでさかのぼるという。薬師と縁がありそうである。

由良川の対岸には岡田下橋で結ばれた川向の集落がある。浄土真宗本願寺派古城山光明寺があるが、ここも志高である。明治20年代の戸数163戸、うち自然堤防上に36戸あったが、明治40年の洪水で24戸が流失、その後、堤防上の家屋は既成の山脚集落の間や奥地に割り込み、また一部は付近の谷々に集団移転したという。志高村は、江戸期~明治22年の村名。志高は明治22年~現在の大字名。はじめは岡田下村、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。

『丹後の地名』より抜粋